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”Shogun of the blues (ブルースの将軍)”
__ケネディー・センター・オナーズで、この日MCを務めた俳優のクリント・イーストウッド氏
“Shun Kikutaは世界のブルース大使だ”
__米国デイリー・ヘラルド紙
” Shunはアジアのブルースの巨人だ ”
__フィリピンを拠点にするBlues Asia Networkのトム・コルヴィン氏
*生まれから宇都宮時代
1966年9月8日午前11時半、栃木県宇都宮市にて産声を上げる。3750グラムの大きな赤ん坊だった。父がクラシックギターやオルガン演奏にも親しむ多趣味人だったことから、音楽への目覚めは早く、小学2年の時に音楽の授業でモーツァルトのトルコ行進曲を聞いて感動し、両親にせがんで初めてレコード買ってもらう。父のクラシックギターを弾き始めたのが4年生。見様見真似でドレミのポジションを覚え、簡単な練習曲を独学で練習。クラシックの名曲「禁じられた遊び」が弾けるようになったのは6年の時。

「当時、覚えたてで最初はゆっくりしか弾けなかった右手のフィンガリングが、一晩寝ると翌日にはスラスラ早く弾けるようになってて自分でもびっくりした。その後そんな経験はまずしなかったから、若いというのはすごいことなんだな、と今になって思うよ」(以下、オレンジ色は菊田自身のコメント)
宮の原中学に入ると、クラシックと並行してフォークに夢中になり、さらに中学後半からはフュージョン、高校に入ってハードロックにも傾倒してエレキギターを弾くようになる。3万7千円で買ったグレコのストラトタイプが初めて手にしたエレキギター。エディー・ヴァン・ヘイレン、ゲイリー・ムーア、マイケル・シェンカー、スティーヴ・ルカサー、ランディー・ローズ、高中正義、ラリー・カールトンなどに大きな影響を受ける。
「部活(高校球児だった)から帰ると夕食を食べて風呂に入りすぐに寝て、明け方4時くらいに起きて登校時間までギターを練習する、そんな高校時代だったね」
プロミュージシャンになることを決意したのは宇都宮高校1年から2年にかけて。高校3年のある日、担任の黒子昭彦先生との進路指導で思い切ってミュージシャンになりたいと告げる。かなり驚いた先生だったが、本気で音楽の道を進みたいと考えていることや、アメリカの音楽が好きだという話を真剣に聞いてくれた。黒子先生はしばらく考えた後で、もしご両親が承諾するのであればと前置きした上で、アメリカに行ってアメリカで音楽を勉強するのが良いのではないか。その方が本物が身に付くんじゃないかとアドバイスをくれる。卒業後のことは漠然としか考えていなかったが、この後アメリカ行きを本気で模索するようになる。最初は反対していた母も、最初に理解してくれた父に説き伏せられるようにアメリカ行きを認めてくれ、アメリカ留学が実現することになった。
*バークリー音楽大学留学、ブルースとの出会い
高校卒業後一年間東京で留学の準備をして、1986年5月米国ボストンにあるバークリー音楽大学に留学。バークリーではプロフェッショナル・ミュージックを専攻。最初は英語がほとんどわからず、先生が言っていることも理解できなかったが、寮でルームメイトになったジェフや数人のクラスメイトに助けられてなんとか授業にもついていく。
1年後半に差し掛かった頃、先輩に勧められて聴いたのがBBキングの「Live at the Regal」だった。このアルバムとの出会いがその後の人生を大きく変えることになる。

「悲しみや喜び、怒りや慈しみといった生な感情が伝わってきて、心を強く揺さぶられたんだよね。BBの歌とギターは圧巻だ。バンドも素晴らしい。このアルバムを聞いてから、ブルースにどんどんハマっていった。シンプルで直接感情に訴えかけてくるブルースってすごい。特にギターでやるならジャズよりブルースが断然かっこいいと直感で感じたんだ」
当時バークリーの周りには中古レコード屋が数件あり、ジャズやブルースのアルバムを手当たり次第買い集め、むさぼるように聴き、ライブにも出かけた。マイルス・デイヴィス、ウェイン・ショーター、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズ、ジョー・パス、B.B.キング、ジョン・リー ・フッカー、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ジョニー・ ウィンター、エッタ・ジェイムスなど、何百というジャズやブルースのアーティストのライブを生で観ることができたのは大きな財産となった。
卒業を前にした1989年、ブルースの本場シカゴを訪れる。バディ・ガイのクラブ「レジェンズ」でバディ本人のライブを観て、さらに市内のブルースクラブでは毎晩多くのブルースバンドがプレイしていた。

「バディのライブは本当にすごかった。町中にブルースが溢れた環境が良かったし、店に入ると店員がHow are you?とか声をかけてくる。そんな親しみやすい雰囲気も気にいって、卒業後はシカゴに移住しようと決意した」
*バークリー音大卒業、シカゴへ。ストリート・ミュージシャンの修行時代
1990年5月、バークリー音楽大学プロフェッショナル・ミュージックを卒業。卒業式にゲスト参加したジョージ・ベンソンから卒業証書を受け取る。

「4年間のバークリー生活が無事に終わり卒業式を迎えた。ゲストで来ていたジョージ・ベンソンが卒業証書を手渡してくれてね。「Congratulations(おめでとう) シュンスーキー」って言って握手してくれたよ。まさかジョージ・ベンソンに会えるなんて思ってなかったから、嬉しい驚きだった」
卒業式から数日後、中古で買ったスバルに荷物を詰め、2日かけてシカゴへ移住。ユダヤ人が所有するコンドミニアムの1室を200ドルで借り、日本食レストランでバイトを始める。夜はローザズ・ラウンジ、ワイズフール・パブ、ブルース・エトセトラなどでのジャムセッションに出かけてジャムに参加したり、バンドが入っている店でもリーダーに声をかけて1、2曲飛び入りさせてもらう日々。こうしてジャムや飛び入りを通して曲や演奏の仕方を学んでいった。ところが、2ヶ月ほどしたころ、日本食レストランをクビになってしまう。困っていたところに、ジャムで知り合ったベーシストのマイクからストリートで一緒に演奏しないかと誘われる。マイクに教えられて、市役所に行って25ドルを払って1年間有効のストリート・パフォーマンス証を発行してもらう。ストリート演奏では電池で音が出る小さなアンプも必要だったが、金がなかった。そこでその時持っていた2本のギターのうち、初めて買った思い出のあるグレコのギターを楽器店でトレードしてもらい、アンプを手に入れた。残ったギブソンES345と電池のアンプを持ってダウンタウンのステート・ストリートやワシントン駅の構内などで演奏を始める。

「ちょうどクリスマスの前で、数時間演奏するだけでチップが150ドル(当時のレートで3万円くらい)ほど集まった。こりゃあ日本食でバイトするもずっといいや、と気を良くしたんだけど、現実はそんなに甘くない。クリスマスが終わるとみんな財布の紐がきゅっと硬くなって、数時間演奏しても2、3ドルにしかならなかった。その金でよくピザのスライスを一切れだけ買って夕食にしたもんだよ」
2ヶ月ほどが経ち、シカゴで初めてのギグ (お金をもらってやるライブ) が訪れた。ローザズ・ラウンジのオーナーのトニー・マンジューロがシカゴ・ブルース界の重鎮ギタリスト、ルイス・ マイヤーズのバンドに参加することを勧めてくれた。当日ローザズでの演奏が始まると、すぐにルイスは寄ってきて、そうじゃないこうやるんだと大声で怒鳴ってベーシックなリズムパターン「ランプ・アンド・ランプ」を弾き始めた。前に座っていた客がクスクス笑う。

「シカゴのバンドってリハをしないからぶっつけ本番。何の曲をやるのかも知らなかったし、いきなりルイスに怒鳴られて、もう演奏を辞めて帰りたい衝動にかられた。なんてひどいジジイなんだろうって思ったよ。でも当時ちゃんとオーソドックスなシカゴのスタイルを弾きこなせなかった自分が未熟だったんだけどね。ルイスにしてみれば、こんなブルースをまともに弾けないアジア人の小僧を俺につけるのか?ってムカついたんだとう思うよ(笑)」
厳しい最初のギグだったけれど、ルイスとトニーの温情でクビにはならず、毎週日曜日にルイスとプレイし経験を積んでいった。数ヶ月が経つとルイスは親しみを示してくるようになり、曲の中でのコードの弾き方を教えてくれるようにもなった。そんなある日、ルイスの旧友でハーモニカの大物ジュニア・ウェルズがギグに遊びに来る。ステージに上がってマイクを取り出すといきなりハーモニカを吹き始めたジュニア。この自由な雰囲気がシカゴのブルースシーンだ。演奏が終わってテーブルにつくと、ほどなくジュニアが前を通りかかった。

「目が合ったから何か言わないと、と思った矢先にジュニアが俺の言葉を遮って『俺をミスター・ウェルズなんて呼ぶなよ。マザーファッカーと呼んでくれ』と言ってニヤッと笑ったんだ。椅子から転げるくらい驚いたし、笑いが出て、ジュニアをいっぺんに好きになった。こんな人は他にはいないよ。かなり衝撃的な出会いだった(笑)」
その時ジュニアが続けて言った言葉「いいか、自分だけのためにプレイしちゃだめだよ。バンドとお客さんと一緒にプレイするんだ。そうすればお前は大丈夫だ」以来、この言葉をミュージシャンとしての信条にしている。
*キングレコードでメジャー・デビュー
ルイス・マイヤーズのお陰でシカゴのプレースタイルにも慣れ、ブルースのスタンダード曲やファンク、R&Bの名曲も覚え、知り合いのミュージシャンが増えるにつれ、ギグの話が入ってくるようになる。ルイス・マイヤーズ・バンド以降もジョニー・リトル・ジョン、ローリー・ベル、トミー・マクラッケン、ビッグ・タイム・サラなどのバンドで活動。1991年CD「CHICAGO BLUES NIGHT」(GBW)に参加。1992年にはCHICAGO BLUES NIGHT BANDで1か月に及ぶイタリア・ツアーへ。サルデニア島のロッシーロッシ・フェスティバルでB.B.キングの前座をつとめる。1994年にはJWウィリアムスのバンドに入り、キングストン・マインズやハルステッド通りのB.L.U.E.Sなどでレギュラー出演。週に5日から6日のペースでプレイする日々を送るようになる。
1994年、日本のキングレコードからアルバム制作の話があり「Funky Blues」でメジャー・デビュー。フランク・コリア・バンドのメンバーとしてギター及びプロデュースも手掛ける。ジュニア・ウェルズがゲスト参加。さらに同年、32歳で他界した天才ブルースマン、マジック・サムに捧げた「Tribute to Magic Sam」がキングより発売になり、菊田はギターで参加、アルバム・プロデュースを手がける。

「Funky Bluesでメジャーのキングからデビュー・アルバムが出せたのは、本当にラッキーだった。その数ヶ月後にはTribute to magic Samでもギターとプロデュースで参加させていただいて、シカゴを代表する素晴らしいミュージシャンたちとレコーディングができた。以降シカゴ、日本での活動の幅がグッと広がったんだ」
1995年にはキングから初のリーダーアルバム「THEY CALL ME SHUN」が発売になり、大尊敬するオーティス・ラッシュがジュニア・ウェルズとともにゲスト参加。大きな話題になる。

「オーティスはエベレストのような存在。アルバムにゲスト参加してくれたのは光栄であるのはもちろん、公私に渡ってよくしていただいて、感謝の気持ちでいっぱいになる。スタジオでヘッドフォン越しにオーティスの歌が聞こえた瞬間に、ミシシッピの大地をゆっくり走る長い列車の風景が目の前に浮かんできた。オーティスが『ベストを尽くせばいいんだよ』と励ましてくれたことが今でも思い出されるね」
1996年には2枚目のリーダー作「CHICAGO MIDNIGHT」が発売に。“ブルースの女王”ココ・テイラーがゲスト参加する。

「ココが在籍するアリゲーター・レコーズのイグロア社長に繋いでもらい、ココのゲスト参加が実現した。スタジオに現れたココは、素朴な黒人のおばさんと言う感じで、ケンタッキー・フライドチキンをおいしそうにほおばっていた。でもレコーディングが始まると、ヘッドホンから分厚くて迫力のある声がガンガン響いてきたよ」
1996年、東京新宿のパークタワー・ブルース・フェスティバルに出演し、JWウィリアムスや鮎川誠、石川二三夫らと共演。1997年パークタワーのライブ音源が「LIVE!!THE 3RD PARK TOWER BLUES FESTIVAL ’96」として発売に。「TRIBUTE TO MAGIC SAM」が、アメリカのエヴィデンス・レコーズより全米発売される。

「パークタワー・ブルースフェスに出演させていただいて、そのライブ音源が初のライブCDとして発売になった。シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんとハーモニカの石川二三夫さんがゲスト参加して、大きな華を添えて下さったのも嬉しかった。このアルバムで共演しているJW、ジョニー・イグアナ、ジェリー・ポーターは大好きなメンバーだ。すごくいいバンドだったよね」
*ジュニア・ウェルズのツアーに参加
1995年春から夏にかけて、ジュニア・ウェルズの全米、カナダツアーに参加する。中部からウエストコーストにかけてのツアーは1ヶ月半に及び、自身初の長期ツアーになった。House Of Bluesはじめ、各都市の名のあるクラブに出演し、ブルース・ブラザーズのダン・エイクロイドやWarのリー・オスカーにも会う。シカゴ以外のシーンを体験し、ジュニアの偉大さを改めて知った思い出に残るツアーだった。

「ある日ジュニアのマネージャーが、『ジュニアが君をツアーに連れて行きたいと言っている』と連絡をくれてね。天にも登る気持ちになった。ジュニアのバンに揺られて全米、カナダをツアーしたんだけど、国土の広さを実感したな。テキサスなんて10時間くらい高速を走っても州を抜けないんだから(笑)。ある日、ラスヴェガスの楽屋で「歌を歌え」とジュニアが言うんだ。英語も難しそうだし、いいですよと断ると、「俺だって英語なんかよくわからないけどブルースは歌えるぞ」って言って、リトル・バイ・リトルのコーラスを歌い始めて、ついてこいって無理やり歌わされてね(笑)。今は、あのときジュニアが歌うきっかけを作ってくれたことに感謝している。ブルースは歌ってナンボっていうのがよくわかるから。カナダのバンクーバーのライブ前に長女が生まれたと知らせが入り、それをジュニアに伝えると「俺がゴッド・ファザーだぞ。忘れるなよ」と言ってWellsとミドルネームをつけてくれたんだ」
*オーティス・クレイの日本ツアーに参加
1999年夏、ソウルシンガーのオーティス・クレイの日本ツアーに参加する。東京はじめ、札幌、仙台、大阪、福岡で公演。アメリカ帰国後もミシシッピ・ツアーにも参加。

「ソウル・レジェンドのオーティスとのツアーからは歌のバックに徹したプレー、いわゆるポケットなプレーの重要性を学んだ。タイミングが全てだ、とオーティスはいつも言っていたね。少しでもチューニングが甘いと「チューニングを確認しろ」と指示が飛ぶ。すごい耳の持ち主だったよ。札幌や仙台、福岡に初めて行けたのも嬉しかったし、アメリカではミシシッピにも連れて行ってくれた。オーティスの日本での人気は凄かったね」
*「HEART AND SOUL」が発売、ジャパン・ブルース・カーニバルに出演
2000年ネリー“タイガー”トラヴィスをゲストに迎え「HEART AND SOUL」(M&Iカンパニー)が発売に。アルバム・メンバーとジャパン・ブルース・カーニバルに出演。日比谷野音はじめ、大阪城野音、名古屋Tokuzoなどに出演する。

「ブルースとソウルの両方をこなすネリーの歌が大好きだったから、一緒にアルバムを出せたのは嬉しかったね。ネリーはシカゴで唯一自分の名前をシュンスケ・キク〜タとフルネームで呼んでくれるソウル・シスターだ。シカゴが悪天候で飛行機が遅れて、空港から直接会場の大阪城野音に向かった。少し遅れたけど、なんとかライブに間に合った。バディ・ガイやカール・ウェザズビーとも一緒で、シカゴの延長みたいなツアーだったよ」
*ココ・テイラーのバンドメンバーに。世界の舞台へ
2000年のある夜、シカゴ市内のクラブ、キングストン・マインズでプレイしているとココ・テイラーが遊びに来て一番前の席に座った。セットが終わって下に降りてココに挨拶をする。「CHICAGO MIDNIGHT」のレコーディング以来、4年ぶりの再会だった。ココは4年前のレコーディングのことを忘れていたようで”Nice to meet you”とまるで初めて会ったように挨拶を返してきた。別れ際に名刺を渡すと、「わかったわ、あなたに電話するわよ、私を覚えておいてね」と言って笑顔でその日は帰って行った。それから3ヶ月ほどしたある朝ココから電話があり、ギタリストのトラで2回ライブを一緒にやることになった。

「バンドをぐいぐい引っ張っぱる男勝りの力強さに圧倒された。シャウトしたときに、モニターからまるで丸太が飛んでくるような声の圧力にのけぞった経験は、後にも先にもココだけだ。そんな凄みのあるシンガーだけど、ライブが終わると優しい表情で、『どう私の仕事は楽しんだかしら?』と聞いてきたんだ。楽しむ余裕なんてほとんどなかったけど「はい楽しみました」と言うと「それはよかったわ。じゃあまた電話するから。私はあなたとのプレイを楽しんだわよ」と言ってくれて、ほっと胸を撫で下ろしたよ」
そのライブからさらに2ヶ月ほどしたころ、ココから再び連絡が入り、彼女が経営していたクラブ”セレブリティ”の事務所で正式にメンバーになって欲しいと告げられる。こうしてココのバンド、ブルース・マシーンのレギュラー・メンバーになり、9年間にわたる彼女との活動が始まった。ココのバンドに入った事で、活動が一気に世界に広がった。シカゴ・ブルース・フェスティバル、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティバル、ノットデン・ブルース・フェスティバル(ノルウェー)、ヴィトリア・ジャズ&ブルース・フェスティバル (スペイン)、エアー・ジャマイカ・ミュージック・フェスティバル(ジャマイカ)、House of Blues (シカゴ、ニューオーリンズ、ロサンゼルス) 、B.B.King’s ブルース・クラブ(ニューヨーク、メンフィス)ほか多くのメジャーなフェスティバルやクラブに出演。ツアーは北米、中南米、ヨーロッパへと広がっていった。
*テレビ番組でB.B.Kingと共演
2003年10月23日は、音楽人生の中でも特別に光り輝く一日となる。BBキングの話を聞きながら彼とブルースの歴史に触れる”An Evening with BBKing”というテレビ番組(PBS系)が企画され、そこで演奏するバンドリーダとして出演オファーを受ける。ホスト役を努めるアイザック・ヘイズがBBにインタビューする形で番組は進み、スクリーンには70年代初期のBBのステージが映し出された。歌っているのは”The thrill is gone”。アイザックがBBに「ここに集まったみなさんもあなたのプレイを聞きたがっていると思いますが、いかがですか?」と聞くと、BBが「ウェルOK」と言って、菊田が渡した愛器ルシールを手にし、バンドとの共演が始まった。曲は”The thrill is gone”だ。演奏が終わって、大きな拍手を受ける中「サンキュー。とても素晴らしいバンドに拍手を送ってください」とバンドの労をねぎらったあとで、「その若いギタリストはまるでBBキングだ。もし僕が自伝映画を作る時には君に若いBBキングを演じてほしいな」と菊田に向かってこう言った。さらに終演後の楽屋でBBは隣の席に呼び寄せ、手を握りながら「君はBBキングをよく知っているね。とてもいいギタープレイヤーだ。Light(肌の色の薄い)BBキングだね」と言って笑い声を上げた。

「BBキングは単なるブルースの王様ではなく、自分にとっては初めてブルースの素晴らしさを教えてくれた特別な人であり、ブルースをプレーするきっかけを与えてくれた恩人でもある。そんな彼に会って一緒にプレイするなんて、”かなわないかもしれない遠い夢”だった。それが実現したんだ。音楽人生で最高の一日だったと言って間違いないだろうね」

「ミスターキングが言ってくれた言葉や手の温もりをはっきり覚えている。その後何度かフェスティバルやライブで一緒になったけれど、とにかく暖かくて大きな人だった。ミスターキングと共演して励まされたことと、ココのバンドに9年在籍したことで、ブルースの王様と女王様に認めてもらえたことは大きな自信につながった。感謝の気持ちしかないよね」
*マーティン・スコセッシ総指揮の映画The Bluesに出演
マーティン・スコセッシやクリント・イーストウッドなど7人の映画監督がブルース誕生100周年を記念して作った史上最大のブルース・ドキュメント映画「THE BLUES Movie Project」が世界のブルースファンの間で大きな話題となる。その第6話「ゴッドファーザー・アンド・サンズ」にココ・テイラーと出演。

「映画の撮影とは全く知らされずにココの店「セレブリティ」に行くと、テレビ・クルーがすでに入っていて、ライティングとカメラのセッティングがほぼ終わっていた。店内は入りきれない程の映画、音楽関係者やブルース・ファンたちで熱気ムンムンだった。数ヶ月後に最初テレビで放映されたんだけど、ツアー中にテレビ画面に自分が映っているのを見て、ああこの映画の撮影だったのかと初めて知ったんだ(笑)」
*ジェイムス・コットンの3カ国ツアーに参加
2006年、スーパーハープの愛称で知られるジェイムス・コットンの日本、アメリカ、カナダ・ツアーに参加する。日本では東京のコットン・クラブに1週間続けて出演。アメリカではポコノ・ブルース・フェスティバルやクラブに出演し、カナダのモント・トレンブラント音楽祭にも出演する。

「スーパーハープと呼ばれるだけあって、ジェイムスのプレイは素晴らしかったね。音色、音の太さや存在感は群を抜いていた。ジュニアはすでに亡くなっていたし、数少ないこの世代のブルースハーピストだった。2006年はココとジェイムス両方の仕事を掛け持ちしていたんだけど、ある日二人のライブが同じ日にブッキングされて自分は長年やってきたココの仕事を優先した。ジェイムスと話してバンドを続けることを断念。体が二つあればなあと思ったよ(笑)。ジェイムスは人柄も良くて素晴らしい体験をさせてもらったね」
*グラミー賞ノミネート作品に参加
2007年にアリゲーター・レコーズより発売されたココ・テイラーの最後のスタジオ・アルバム「Old School」に参加する。同アルバムは2008年のグラミー賞ベスト・トラディショナル・ブルース部門にノミネートされる。

「ココのアルバムでは甥っ子のクリス・ジョンソンが長年ギターとアレンジで参加しているから自分にはチャンスがないのかと思っていた。アリゲーターのイグロア社長から話が来て、事前にプレイに対して細かい指示があったんだ。ココはレーベルの看板シンガーだから彼の力の入れようは凄かったね。グラミーにノミネートされて、さらにココの最後のアルバムになったから、参加できたのは本当に嬉しかった」
*ツアー中の事故で大怪我を負う
2008年8月、ココ・テイラーのツアー中にウィスコンシン州ブラック・リヴァー・フォールズで大事故に遭う。120キロの速度でコンクリートの壁に激突したツアーバンから外に投げ出され、顔面左半分を4カ所骨折 、右足の付け根を脱臼する大怪我を負うも、奇跡的に命は助かった。左半面の整形手術とリハビリを経て2か月後に復帰。人生観が変わる大きな出来事だった。ココは同乗していなかったので無事だったものの、バンドメンバーは全員が重傷を負った。
「骨折するくらい顔を強く打ち、付け根から抜けてしまうくらいに右足が引っ張られたのに、脳や首や神経のダメージも後遺症もなく怪我が治った。何かに守られていたんだって感じたよ。こうして演奏活動にも復帰できたし、まさに第二の人生をいただいたんだね。翌年にココが亡くなるんだけど、それまでにメンバーの二人は復帰する事が叶わず、メンバーが揃ってライブをやる機会はとうとうなかったんだ」
*ゴスペルとの出会いとマウント・モライア教会
インディアナ州ゲイリー空港のオープニングセレモニーで演奏した際に、ある黒人男性に声をかけられた。「君はゴスペルが好きかい?」。当時ゴスペルについてはよくわからなかったけれど「はい好きです」と答えると、「それでは時間があるときに僕の教会に来てギターを弾いてくれないか」とその男性は誘った。それから数週間後教会を訪ねてみた。ゲイリー市にあるマウント・モライア・バプテスト教会で、男性はマリオン・J・ ジョンソン牧師だった。約2時間の礼拝で、数曲バンドやクワイアと演奏を共にした。これがきっかけで、モライア教会のバンドメンバーとしてゴスペルを演奏することになった。ブルースとゴスペル。片や男女の愛や人間の生き様を歌い、方や神やジーザスを歌う。表現は違っても底にはブラックミュージックの源流が流れていて、音楽的に共通することがたくさんあった。馴染みがありかつ新しい一面に触れて大きな刺激になる経験だった。

「最初の礼拝で曲も知らずにバンドやクワイヤーに合わせて即興で弾いたら、礼拝が終わった後でオルガンのホール牧師が「ミュージシャンを10段階で評価すると、シュンは12だね」と言ってくれて(笑)、バンドメンバーになることが決まったんだ。事故の時には、ジョンソン牧師が時々電話をくれ、メンバーがいつも祈ってくれたと聞いた。退院して最初に教会を訪れた時に洗礼を受けたんだ。ジョンソン牧師は自分のスピリチュアルな父。今でも交流が続いているよ」
*ケネディー・センター・オナーズに出演。ブルースの将軍の称号を与えられる
2008年12月、”ニューヨークの金と、ワシントンのパワーと、ハリウッドのチャームが一つになった”と形容される年末の大イベント、ケネディー・センター・オナーズに出演する。参加者はブッシュ大統領夫妻を筆頭に、コンドリーザ・ライス国務長官、コーリン・パウエル前国務長官などの政府首脳をはじめ、アレサ・フランクリン、クインシー・ジョーンズ、クリント・イーストウッド、デンゼル・ワシントンなど政治、音楽、映画界の大物がズラリと並んだ。ココ・テイラー、ハニーボーイ・エドワーズ、パイントップ・パーキンス、ウィリー・ビッグアイ・スミスなどの大物ブルースマン、ウーマンの混合バンドのギタリスト兼バンドリーダーとして抜擢される。MC役のクリント・イーストウッドが、マイクを通してバンドメンバーを一人ずつ紹介。「世界中を駆け回って演奏活動を続けている、ブルースの将軍(Shogun of the blues)シュン・キク~タ」と紹介する。

「イーストウッド氏はジャズやブルースに造詣が深く、音楽映画も作っている。そんな素晴らしい俳優で映画監督の彼にブルースの将軍(Shogun of the blues)と紹介していただいたのは、本当に光栄な事。以来ブルースの将軍を自分のキャッチコピーとして使わせていただいている」
*ココ・テイラーの死
2009年6月3日早朝、ココの娘クッキーからママが危篤だから至急病院に来てと連絡が入る。ノースウエスタン病院に直行し、同日午後家族やバンドメンバーとココを見送る。ココ・テイラー80年の生涯だった。10年近く活動を共にしたブルース界の母親のような存在だったココが亡くなった事で、一つの扉が閉じたのを感じた。また当時抱えていたブライベートでの行き詰まりもあり、次第に菊田の目はシカゴの外に向き始めていく。

「最後の3年くらいは自分がココをママ、ココはMy Shunと呼んで、親子のような仲だった。10年近くにも及ぶ活動のなかで思い出は尽きない。ココがよく言っていたのは「自分がして欲しいことを人にしてあげなさい」だった。高い教育は受けてないけど、経験から得た知恵をすごく持った人だった。周りやファンからたくさん愛された人生の勝利者だったと思う。ココと出会えたことに心から感謝したい」
*アジア各地での活動
ココ・テイラーの死後、アジアでの活動に力を入れることを模索し始める。台湾ブルースソサエティのダグラス・レイピアーやドラマーとして現地で活躍するDafuの協力もあって、2005年から台湾ブルースバッシュに出演、ブルース・アジア・ネットワークを主催するトム・コルヴィンの推薦でジャカルタ・ ブルース・フェスティバルやマニラのCCPジャズ・フェスティバルにも出演。2010年代に入ると、北京ブルース・フェスティバル、バンコクSaxophone Pub、上海Chair Club、天津パイ・ライブハウス、蘇州Wave、香港The Wanch、ジャカルタJaya Pub、マニラThe Roadhouse、マカティStrumm’sなどアジア各地のフェスティバルや老舗ライブハウスに出演し、日本国内でも青森ジャパン・ブルース・フェスティバル、浜松ブルース・フェスティバル、堺ブルース・フェスティバル、佐賀ブルース・フェスティバル、福岡ブルース・フェスティバル、ミヤジャズ・インなどブルースやジャズ・フェスティバルにも定期的に出演。本格的にアジアでの活動に力を入れることになる。

「台湾ブルース・バッシュに2005年から続けて出演させていただいたことで、アジアの魅力に少しずつ魅せられていた。長年アメリカに住んでいたので北米やヨーロッパ、中米はかなり行ったけれど、日本や台湾以外のアジアの国での活動はまだ経験がなかった。ちょうどアジアのブルースが盛り上がってきてるのを感じていたし、自分がシカゴで体験したことを伝えたり共有したりすることでアジアのミュージックシーンの役に立てるのではないかと思った」
*7年ぶりのソロ・アルバム「Rising Shun」が発売に
2007年、7年ぶりのソロアルバムが宇都宮を拠点にするYotsuba Recordsから発売になる。ゲストにはココ・テイラーはじめ、JWウィリアムス、ビリー・ブランチ、ジェラルド・マクレンドン、Jamsbee、後のFunky Trio, Voicesなど日米のアーティストが集結。レコーディングもシカゴと宇都宮で行われた。奇しくもこれがココ・テイラーの最後のレコーディングとなる。2018年にはリミックスした音源に新曲5曲を加えた「Rising Shun Plus」が発売に。

「故郷の宇都宮とブルースの故郷シカゴでのレコーディグに加えて、7年ぶりのソロアルバムだったし、ココの最後のレコーディングになったということでも思い入れのあるアルバムだね。自分のライブのセットリスト定番のオリジナル曲もこのアルバムに収められている。シカゴからアジアへの活動の架け橋になった作品と言ってもいいかもしれないね」
*デビュー20周年記念ツアー
2010年シカゴデビュー20周年を記念したツアーを東京、大阪、宇都宮3都市で行い、近藤房之助、木村充揮、鮎川誠、清水興、ichiro、鮫島秀樹、Nacomi、Brown Blessed Voiceなどがゲスト出演。

「デビュー20周年記念ツアーに多くの素晴らしいゲストミュージシャンに参加していただき、各会場で大きな華を添えていただいた。そしてShun Kikuta Bandや協力してくれた仲間たちの存在抜きには実現しなかったツアー。本当に多くのみなさんに支えていただいて感謝の気持ちでいっぱいになる。このツアーが日本やアジアでの活動をさらにプッシュしてくれた気がする」
*レジェンド・オブ・ロッカーズ、ブルース・プロジェクト結成
2013年、菊田のギターを制作している表克美氏がLegend Of RockersとBlues Projectを立ち上げる。山本恭司(BOWWOW)、加納秀人(外道)、和田ジョージ(フラワー・トラベリン・バンド)、篠原信彦(フラワー・トラベリン・バンド)、清水興(NANIWA EXPRESS)、KEN、ROLLY、沢頭岳、生沢”AIK”祐一、マーティー・ブレイシー、クマ原田、Tammy、祖田修など日本を代表するロック、ジャズ、ポップス・アーティストとのコラボがこのプロジェクトで実現する。

「ムーニーさんのプロデュースで素晴らしいミュージシャン達とコラボさせていただいた。レジェンド・オブ・ロッカーズは、自分にとってプロになって初めてロックに挑戦したプロジェクト。自分の中に眠っていたロックのスピリットやテクニックを目覚めさせ、ブルースとコンバインさせるのにかなりのエネルギーを注いだ。恭司さんや加納さん、大ベテランのメンバーのみなさんからたくさん刺激をいただいて、全国ツアーに加えてアルバムもメジャーのキング・レコードから発売に。またブルース・プロジェクトはロンドンからベースのクマさんが参加してくれ、Tammy、マーティー、祖田さんという素晴らしいメンバーでブルースを思い切り楽しめ、全国ツアーと自分のレーベルからのアルバム発売もできた。両バンドの活動から得ることは大きかったね」
*Blues Company、Funky Trio、Kikuta Brothers結成
2015年青森のジャパン・ ブルース・フェスティバルにシカゴから出演したジミー・バーンズとキャサリン・デイビスのバックをやってほしいと青森サイドから打診があり、菊田が選んだメンバーが、シカゴ出身でもんた&ブラザーズなど日本のメジャーなアーティストとの活動歴が長いマーティー・ブレイシーがドラム、2018年にシカゴ・ブルース・ピアノ・コンテストで優勝したLee Kanehiraがキーボード、そしてマルチタレントで菊田と同郷の片野篤がベース。ライブ後にこの4人でバンドを結成しようということになりBlues Companyが出来上がった。またFunky Trioは、Blues Companyの片野篤がベース、そして嵐などメジャーアーティストとの活動でもよく知られる関慶和がドラムの3人編成で、2008年のレコーディングをきっかけに始まった。さらに2020年からは菊田の弟の浩基(こうき)がカホンで入ったアコースティック・デュオKikuta Brothersが活動を開始。

「最初のライブで4人の息が合い、マーティーが自分を社長と呼んだから、自分がマーティーを平社員と呼んだ。じゃあバンド名はBlues Companyだなって、ひねりの全くない名前でバンドを組むことになったんだ(笑)。それ以来、定期的に全国ツアーをやり、ROLLY、KONISHIKI、金尾よしろうさん、ネリー・タイガー・トラヴィス、マイク・ウィーラー、トロンゾ・キャノン、ノラ・ジーンなど国内外アーティストたちとのコラボも行ってきた。Funky Trioは、片ヤンと関ヤンの強力なリズム隊に乗っかって思い切り歌って弾き、3人の自由なインタープレイも楽しめる。弟の浩基とはカホンとアコギでやってみたらいい感触があったから、Kikuta Brothersとしてライブもやろうかと話が進んだんだ」
*Rising Shun Records創設
2018年1月に自己レーベル、Rising Shun Recordsを立ち上げる。レーベル第一弾はBlues Companyのデビューアルバム「Blues Company」。そして2019年にはBlues Projectの「Good Times Roll」を、さらに2020年には前年のフランスツアーでペルッサンのホール・ ブルース・クラブで録音したライブ音源を「Live In France」として発売。

「自分のレーベルを持ちたいと以前から考えていて、Blues Companyの制作に合わせて立ち上げた。それ以降Blues Project、ライブも出して2020年現在3タイトルを扱っている。コロナ自粛期間中に自宅スタジオで録音したアコースティック・アルバム「In a room」を2021年に発売予定している。他にもインストアルバムや、オリジナルアルバムなど出したい作品のアイディアはいくつかあるから近々形にしたいね」
*ソロ・アーティストとしてフランス・ツアー
2019年4月フランス・ツアーを行う。ココ・テイラーのバンドなどで何度もヨーロッパで演奏してきたが、ソロ・アーティストとしては初のヨーロッパ・ツアーだ。シャトール=シュル=シェールのLa Mason Du Bluesなどフランス6都市6会場でライブを行う。新進気鋭のブルースバンド、EL JOSE And the Hibbie Bluesと共演。ツアー最終日ペルッサンのHall Blues Clubで録音したライブ音源が後に「Live In France」としてRising Shun Recordsより発売になる。

「ヨーロッパ、特にフランスはその昔からアメリカのジャズやブルース・アーティストがツアーで訪れたり住んだりして、音楽が広く根付いている。このツアーでは、リオンの周辺都市や、ワインの産地ブルゴーニュ地方など6都市を回った。若きブルースマン、エルホゼとベースのチャールズ、ドラムのペポと一緒にツアーをして音がどんどん良くなっていったよ」

「最終日にライブしたペルッサンのHall Blues Clubは、中世に作られた城の隣の、同じ年代の石造りの建物の中に作られたライブハウスで、独特の雰囲気があった。日本やアメリカとはまた違った音色が出ていたのではないかな。このライブを録音してCDにできたのは良かった。ソロ・アーティストとしてヨーロッパにも活動が広がってきたのは嬉しいし、自信にもなったツアーだったね」
*日本、インドネシア、台湾、フランスのブルース共演
2019年6月と9月、フランスからエルホゼ、台湾からDafu、インドネシアからバンドン・ブルース・プロジェクトを招聘してInternational Blues Summitと題したライブを汐留Blue Mood, 荻窪Rooster、横須賀Younger Than Yesterdayの3会場で行う。日本からはShun Kikuta Funky Trioが参加、横須賀では金尾よしろう音楽魂とのコラボが実現。

「自分が各国に行って現地のバンドとプレイするだけでなく、彼らを日本に呼んでコラボする。その第一歩を踏み出せた。しかもフランスや台湾、インドネシア、日本のミュージシャンたちが一緒に音を出す本当の意味でのインターナショナルなブルースライブだ。こうして国を越えてブルース交流をするのは自分の夢だし、これからずっと続けていきたいプロジェクトだよ」
「横須賀ではいつもラジオでお世話になっている金尾よしろうさんの音楽魂がコラボしてくださり素晴らしい夜になった」
*アコースティック・アルバム “In a room”
コロナ・パンデミックでライブ活動が制限された2020年、初のアコースティックソロアルバム「In a room」を制作する。2021年3月に自己レーベルの第四弾として発売になる。日本各地のラジオでオンエアーされた他、アメリカ、フランス、スペイン、タイ、台湾、ブラジルなどでもFM、インターネットラジオなどで取り上げられる。

「2020年はコロナ禍でライブ活動が制限されてしまった。それならと、自宅でアコースティック・アルバムを作ろうと決心したんだ。それまでエレキの菊田のイメージを持つ人が多かったと思うけど、このアルバムでアコースティックの新たな一面も見せることができた。このアルバムで活動にさらに幅が広がったのが嬉しい。パンデミックの中でも新しいものをクリエイトできたのがよかったね」
*音楽ライター、ギター・インストラクターとしての活動
音楽ライターとしてギターマガジン、ブルース&ソウル・レコーズ、地球の歩きかた『シカゴ編』、Qマガジンなどで長年レギュラーコラムを担当する。リットーミュージックから単行本「世界のブルース横丁」と「生きたブルースを身につける方法」を出版。

ギター・インストラクターとしてもプライベート・レッスンやZOOMリモート・レッスンに加えて各地でブルース・ギター・ワークショップを開催している。2019年には台湾の南台科技大学より客員教授に任命され、2020年から桜美林大学でギター講師に就任。1999年にリットーミュージックから教則ビデオ「シカゴ・ブルース」が出たのを皮切りに、シカゴ・ブルース (DVD 2002)、R&Bギターの常套句 (DVD 2004)、ブルースギターの常套テクニック (DVD 2005)、ブルース・ギター・ジャム・セッション (ムック 2005)、ブルース・ギター・ジャム・セッションRー伝説再臨ー(ムック 2006)、菊田俊介式ブルースギター、感情にグッと来るコール&レスポンスの流儀 (DVDアルファノート, 2014)を発売。
*栃木未来大使、講演活動
2010秋に、栃木県の福田冨一知事に任命されて栃木未来大使に就任。栃木県が作ってくれた名刺には名産品のイチゴがプリントされていることから、名刺を受け取った人からはイチゴ大使と呼ばれることも多いという。中学校、高校、大学、お寺などで、「夢を大きく描こう」、「生き方の流儀」などの演題で講演も定期的に行っている。

「講演や、講演とライブを組み合わせたイベントは自分も学ぶことがたくある。いろんな世代にブルースや音楽の素晴らしさと楽しさを伝えていくことができるし、自身の経験を話すことで、若い人達にいろんな生き方のオプションがある事を伝えていきたいね」
*ラジオ&テレビ出演

「この数年は、かわさきFM金尾よしろうさんの”音楽魂”に定期的に出演させていただいている。金尾さんと松下年見さんがDJをやられている、ハートフルで音楽愛に溢れた大好きな番組。FM COCOLOのマーキーさんにもお世話になっていて、地元のCRT栃木放送や、ツアーで訪れる地方のラジオ、テレビ局にもよく出演させていただいている。ありがたいね」
- かわさきFM金尾よしろうの音楽魂
- FM COCOLO 765
- CRT栃木放送
- RADIO BERRY FM栃木
- FMまつもと
- 調布FM83.8
- きたかみE&Beエフエム
- エフエムおびひろ(jaga)
- DARAZ FM 79.8
- Channel 11 (U.S.A)
- NBC (U.S.A)
- WGN (U.S.A)
- NBC (U.S.A)
- PBS TV (U.S.A, An evening with B.B.King)
- PBS TV (U.S.A,The Blues Project)
- NHK BS (News, 日本)
- NHK BS (日本)
- フジテレビ (グラと我聞のアメリカ珍道中、日本)
- Rossi Rosi Blues Festival (Italy)
- Kongsberg Jazz Festival (Norway)
- 栃木テレビ (ドキュメント)
- 青森テレビ (Japan Blues Festival, 2010~2019)
ディスコグラフィー
ソロ・アルバム
- They call me Shun (King Records,1995)
- Chicago Midnight (King Records,1996)
- Me and my guitar (Bluesox,1999)
- Live and kickin'(Bluesox,1999)
- Rising Shun (Yotsuba Records, 2007)
- Best of Shun’s Blues (King Records, 2013)
- Rising Shun Plus (Yotsuba Records, 2018)
- In a room (Rising Shun Records, 2021)
コラボレーション
- Funky Blues/Frank Collier Band featuring Junior Wells and Shun Kikuta (King Records,1994)
- Tribute to Magic Sam (King Records,1994)
- Live! The 3rd Park Tower Blues Festival/Shun Kikuta & JWWilliams (King Records,1997)
- Heart and Soul/Shun Kikuta & Nellie”Tiger”Travis (M&I Company,2000)
- GYOZA BLUES / Jamsbee with Shun Kikuta(Yotsuba Records, 2004)
- THE MUSICMANSHIP / Jamsbee with Shun Kikuta (Yotsuba Records, 2005)
- Power In My Arms / Shun Kikuta & Legend Of Rockers (King Records, 2013)
- Blues Company / Blues Company (Rising Shun Records, 2018)
- Good Times Roll / Blues Project (Rising Shun Records, 2019)
- Live In France / SHUN KIKUTA with EL JOSE And the Hibbie Blues (Rising Shun Records, 2020)
参加アルバム
- CHICAGO BLUES NIGHT / Tommy McCracken and The Force Of Habit Blues Band, Deitra Farr, Katherine Davis, Chicago Beau and Willie Kent (GBW, 1991)
- JUST A LITTLE MORE LOVE IS ALL WE NEED / Queen Ayacodobae (1996)
- EXPLOSION / Kid Dynamite (1999)
- I GOT IT LIKE THAT / Nellie”Tiger”Travis (2001)
- Patrick Doody / Patrick Doody Group (2001)
- RESPECT THE STONES(ジェネオン・エンタテインメント, 2006)
- Old School / Koko Taylor (Alligator, 2007)
- Essencially Yours / Chick Rodgers (Spellbound, 2007)
- Bad Girl / Demetria Taylor (Delmark, 2011)
- 2013 / 荒山亮 (2013)
- 一個人,唱情歌 / Sasha Lee (2013)
- Bad Taboo / Carolyn Fe Blues Collective (2014)
- 美好時刻 / 以莉·高露 (2015)
- 和楽 / 古田佳子 (2015)
- BEAT CLUB ALL STARS 4 (Yotsuba Records, 2015)
- 鳴神 SOUND / 鳴神 (Yotsuba Records, 2019)
- The Chicago Thunders (EL RECORDS, 2019)
- Don’t Mind The Rain / Mike Garner (2020)
- 等待好天 / 荒山亮 (2020)
- Baton / Tammy (2020)
- Black Samurai / Marty Bracey (2020)
教則DVD、教則本
- シカゴ・ブルース (VHS リットー・ミュージック 1999)
- シカゴ・ブルース (DVD リットー・ミュージック 2002)
- R&Bギターの常套句 (DVD リットー・ミュージック 2004)
- ブルースギターの常套テクニック (DVD リットー・ミュージック 2005)
- ブルース・ギター・ジャム・セッション (本 リットー・ミュージック 2005)
- ブルース・ギター・ジャム・セッションRー伝説再臨ー(本 リットー・ミュージック 2006)
- 菊田俊介式ブルースギター、感情にグッと来るコール&レスポンスの流儀 (アルファノート, 2014)